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Also Sprach Mkimpo Kid

1997年08月11日(月)

  **県**市で小学*年生の女児(男児)が行方不明になってから**日目の**日、家族や地域の人々の願いもむなしく、事件は最悪の結末を迎えた。

 何か最近この手の報道がTVでも新聞でも多いけど、「最悪の結末」ってどういう意味かね? もちろん被害者が死体で発見されたということは、それ自体たいへんな悲劇だと思うけど、なんでそれが「最悪の結末」なんだかよく理解できない。
 僕なんか「最悪」っていうともっとずっと惨酷なこと(たとえば性的拷問で被害者をとことんなぶり殺しにしたとか、それを撮ったヴィデオと切り取った身体の一部を被害者宅に送りつけたとか、それで家族の誰かがノイローゼになったとか、あるいは学校や職場でその事件をネタにした陰湿ないじめが横行したとか、被害者宅に嫌がらせの電話が殺到したとか、それで家族の誰かが自殺しちゃったとか)を想像しちゃうけど、そこまでのことは言ってないみたいだし。
 だいたい被害者が殺害されてるだろうことは、メディアでは公然と言えないにせよ、視聴者や読者の間ではかなりの程度予測できてることなんだから、「事件は残念ながら恐れていた結末を迎えた」とでも表現した方がより現実に近いと思うんだけど。


1997年8月12日(火)

 朝日新聞の「論壇」に中国残留孤児2世で東京都立大学大学院生の大久保明男(中国名・董暁明)が次のような投稿を寄せている。

  残留孤児呼称は「日系中国人」に

 中国で成人し、家庭を築き、一定の社会的地位を持つ五十代、六十代の人たちを指して、いまだに「孤児」と呼ぶのは養父母の存在に対する無視であり、本人に対する侮辱である。(部分)

 僕は「残留孤児」問題そのものにはあまり関心はないのだが、ただ「残留孤児」という呼称にはずっと違和感を感じていた。なんでいい歳をした大人たちを掴まえて「孤児」なんて失礼な言い方をするんだろう、と不思議な思いでいた。
 他にも「帰国子女」という言い方がある。「女こども」という言葉があるが、何かそれに通じるものを感じる。何か他にもっといい言い換えはないだろうか、と考えてみても、これといった妙案は浮かばないのだが、「子女」という言い方はどうも変だ。「帰国児童」でも何でも他に言いようがあるのではないか?
 新聞の漢字の使い方もおかしい。「排せつ」とか「ろっ骨」とか「閉そく」とか、却ってわかりにくく、バカにされている感じがする。かと思うと、韓国人の名前など、どう逆立ちしても読めないような漢字を読み方も示さずに平然と書いている。TVでは韓国・朝鮮人の名前はもう何年も前からカタカナで表記している。
 メディアの言葉づかいや文字表記にはいろいろとおかしなものがある。

               ☆

 神田パンセホールにおける宮崎学 vs. 高野孟「バトルトーク 夏の陣 病気社会の治療法」(司会・大谷昭宏)を聴きに行った。いろいろな話があったが、なかでも「FOCUS」の酒鬼薔薇写真掲載に関し、それぞれ立場・考え方は違うが、3人とも新潮社を批判してたのは心強かったね。
 宮崎学は次のようなことを言っていた。

 新潮社は少年の写真掲載に関し、「売らんかな」が本音なのに、少年法の枠を超えてるとかどうとか、嘘のタテマエばかり言ってるのはおかしい。
 そもそも私は少年の写真掲載には反対。

 新潮社は「売らんかな」だし、写真掲載を擁護している奴らは、ほんとは「排除と制裁」の相手を見つけて、それをバッシングして、日常生活での鬱憤を晴らして、スッキリするのが目的なのに、それを言わないで、「民衆の声」とか言って、正義を騙っているのは許せないね。


1997年8月14日(木)

 最近、交通事故以来、中断していた夜の散歩の習慣を復活している。夜の11時頃から新宿御苑の外周を、途中、神宮外苑の方にはずれたりしながら、だいたい1時間かけて1周する。空気の悪い大通りは避けて、脇道を中心に歩くのだが、近頃、妙な奴らが多いので、真っ暗なところを通るときなど、ちょっと不気味に感じることがある。
 事故前には身長175cmに対し、体重63kgほどあったのが、最近は58kgほどに落ちた。もっと体力をつけなくてはいけない。


1997年8月15日(金)

 今夜のTBS「ニュース23」は「灰谷健次郎・柳美里と本音で語る」という内容らしい。2人が何を語るか、楽しみだね。

               ☆

 灰谷健次郎は言うことがなんだかずれてるし、柳美里はどうにも生意気だ。
2人の話は時間の制約もあって、あまり盛り上がらなかった。
 東京と神戸の会場にそれぞれ高校生が数10人ずつ招かれていたのだが、結構活発に意見を交換していた。ただこっちも時間の制約があって、深いところまでは議論が深まらなかった。
 1人面白いことを言う高校生がいた。そもそも本当に人を殺すことは悪いのか? これは本質的な設問だ。みんなでなぜ人殺しが悪いのかという理由をいろいろと言い合っていたが、結局、最後まで疑問をだした高校生は説得されなかった。
 僕は敢えて結論を言えば、次のようになる。
 殺人は、慣習あるいは文化としてのみ悪とされてきたのであって、合法行為としての戦争や死刑制度、また安楽死のことなどを考慮に入れれば、絶対的な悪とまでは言えない。しかし人類の知恵として、長い歴史過程のなかで殺人=悪という価値観が定着してきたのであり、これを放棄する如何なる積極的理由も見出せない。故に現時点において、殺人は一般的に禁止されている、と考えておいた方が無難。また全体的にみてより住みよい世界になる。
 ちょっと粗雑だけれども、こんな感じだ。しかしこの論理では、件の高校生の殺人の論理を否定はできない。


1997年8月16日(土)

 「ゴーマニズム思想講座」に関する7月30日の僕の日記を以前、「Yoshirin WATCH」に投稿していたのを思い出して、さっき覗いてみたら、ちゃんと原文のまま 「mail 347」 として掲載されていた。新聞に大きく紹介されていただけあって、感心だね。

               ☆

 最近、"MULTI LEVEL MARKETING"プログラムについての電子メールがよく送られてくる。こいつらほんとにバカだ。まあKKCや和牛商法と違って、金銭的に大きな被害になることはないのだろうが、青木雄二先生の「ナニワ金融道」を読んでいないのか?


1997年8月17日(日)

 今日、ようやく<FORM>タグの使い方を覚えて、Leave Your Footprints をつくった。


1997年8月18日(月)

 京都教育大学助教授・村上登司文が、今年1〜2月、東京都区部と京都市・広島市・那覇市の公立中学2年生、1.154人を対象に実施した平和意識調査の結果によると、「原爆投下は日本が戦争を始め、アジアでひどいことをしたから仕方がなかった」という意見に対し、4割が「反対」、3割ほどが「仕方がなかった」と答えたという。
 この記事は今日の朝日新聞の「家庭」欄に載っていた。
 この呆れた調査結果に対し、さてあなたの意見は?

   

1997年8月19日(火)

 よくは知らないが最近、アラキ・ヤスサダという被曝者詩人のことが話題になっているらしい。
 ヤスサダは1925年から28年にかけて、まだ創立されていない筈の広島大学に通い、そこを中退して、郵便局に勤めた。そして8月6日の原爆投下によって妻と2人の娘を失った。彼は1970年に出版されたロラン・バルトの『表徴の帝国』をすでに67年に読んでいた。
 ヒロシマ・ナガサキ50周年に相前後して、被曝者詩人ヤスサダの草稿が「発見」され、それらがトサ・モトキユ、オークラ・キョジン、オジウ・ノリナガという3人の胡散臭い名前をもつ日本人「翻訳者」によって「翻訳」され、アメリカの一連の詩の雑誌に掲載された。その草稿は数々の反響を呼び、読者のなかには「眠れぬほど」の感動を告白する詩人まで現れた。
 しかしほどなくヤスサダは偽物だという噂が流れ始める。編集者たちは態度を変え、被曝者詩人の捏造はヒロシマ・ナガサキをダシにした悪質なものだという非難が湧き起こる。

 ここまでは今日の朝日新聞夕刊の「文化」欄に書いてあったことだ。何日か前の同紙に、やはりヤスサダに関する記事があったのだが、いつの記事だったか忘れてしまった。
 よく知りもしないことをあれこれ書くのは正当ではないかもしれないが、興味深い事象なので、少しだけ感想を書く。
 たとえ詩の題材がヒロシマ・ナガサキというシリアスなものであったとしても、作品のよしあしはテクストの読み(lecture)によってのみなされるべきである、と僕は考える。作者が現実に存在しようがしまいが、作者が第3者による(善意の、あるいは悪意の)捏造だろうが、虚構だろうが、詩の出来不出来とは直接、関係のない話である。それを、真の作者は誰か、とか、あるいは真の作者が誰それであるなら、この作品の真の評価はこうだ、とかいうような稚拙な議論を繰り返しているとするなら、アメリカの詩壇(批評)のレヴェルはかなり低いと言わざるを得ない。
 もちろん僕は実際にアメリカでどんな議論がなされているのか知らない。infoseekで検索したが、それらしいページは見つからなかった。だからとんだ見当違いの感想を述べているのかもしれない。
 
 少し違う次元の話かもしれないが、美術作品の真贋ということがよく話題に昇る。ピカソなりダリなりセザンヌなり、ある有名な画家の本物(オリジナル)と思われていた作品が、実は贋物(コピー)だった、というわけである。
 あるいはいつだったか、相続した財産のなかに有名な画家だか陶芸家だか彫刻家だかの作品が多数含まれているということがあった。故人の遺志でそれを郷里の美術館だか博物館だかに寄贈するという話になった。しかしその作品の真贋が鑑定家の間で2つに分かれ、いつまでたっても決着がつかない。
 僕はこういう話を聞くたびに、いつも奇妙な感覚にとらわれる。本物だろうと贋物だろうと、オリジナルだろうとコピーだろうと、要はそれを視たとき、聴いたとき、嗅いだとき、味わったとき、触ったときに、本人がそれをどう感じるか、という問題ではないのか? 芸術には結局、絶対ということはないのだから(もちろん多くの芸術家は「絶対」あるいは「大文字のテクスト」とでもいうべきものを目指しているのだろうが)、それぞれの個人がその人なりの個性なり感性なり能力なりに合わせて、そこからエロスなり感動なり生き甲斐なりをどう引き出すかという問題ではないのか? 


1997年8月20日(水)

 国税庁は18日、相続税や贈与税、地価税の算出基準となる1997年分の路線価を全国の国税局、税務署で公表した。路線価は5年連続の下落だが、下げ幅は縮小傾向にあるという。
 現在の地価水準・家賃水準についてあなたの意見は?


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