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Naoka Archives 2008

天上の羊


「天上の羊」は彼女の遺作となった童話です。
生前に公開の許可は得ていません。まだ未定稿なのかもしれません。
病気の再発のことはまだ知らなかった時期に書いたはずなのに、どこか暗示的でふしぎな気がしました。


天上の羊

 ある街に、そう若くはない共働きの夫婦が住んでいました。妻のマイコは編物の先生、夫のタケシはサラリーマンをしていました。二人は貧しく、なかなか子供もできませんでしたが、いつか子供や孫に囲まれて裕福な暮らしをしたいと願っていました。

 マイコはお腹に赤ちゃんができるのを願いながら、赤ちゃん用のケープを何枚も編みました。それがたくさんたまった頃、ようやく男の子が生まれました。マイコとタケシは大喜びです。二人は息子の幸福を願って、男の子をコウと名付けました。

 マイコは仕事を休んで、育児に専念しました。コウの世話をしたり料理をしたり、家族のための毛布やセーターを編むことで忙しかったのです。こんな風に家族に尽すのはとても楽しいことでした。コウはすくすく育ち、歩いたり走ったりできるようになりました。 マイコとタケシは、コウを連れて遊園地に行ったり、公園でお弁当を食べたりするのが好きでした。コウも大喜びでした。

 そんな日のこと、コウは高熱を出して寝込みました。どこの病院に連れて行っても、原因不明で治療法もないと言われ、一向になおりません。お医者さんからもらった薬を飲ませても、熱は下がりません。コウは高熱でうめいています。

 マイコは、昔読んだ編物の本の中に、どんな病気もなおすという天上の羊についての伝説が載っていたことを思い出しました。その羊は、遠い国の人里離れた高い高い山の上に住んでいました。その柔らかな、半透明の白い毛をつむいだ糸で作った衣を着ると、どんな病気もたちどころになおり、いつまでも健康で長生きできるという話でした。しかし、その伝説を信じて、天上の羊を一目でも見たいと、遠くからやって来て、高い高い山に登っても、羊を見つけた人はいませんでした。それどころか、道がないため途中で落石にあったり道に迷ったりして、たどり着けない人がほとんどでした。

 それでもマイコは、その羊に会いに行くことを決心しました。タケシは有給をとり、コウの世話をします。マイコは、リュックサックを背負い、電車に乗り、飛行機に乗り、船に乗り、ようやく幻の羊がいる国にたどりつきました。

 それから、重いリュックサックを背負ったまま、山をこえ、谷をこえ、高い高い崖を登っていきました。崖の頂上は、霞みがかかっていて見えません。

 自分でかけたロープにつかまって、少しづつ登っていきます。大きな石が上から転がって落ちてきましたが、なんとか助かりました。

 足を踏み外しそうになったり、道に迷ったりしましたが、ようやく頂上にたどりつきました。

 目の前には、草原が広がっています。とても標高が高いためか、雲と霞みがかかっています。あちこちにお花も咲いていて、とてもきれいです。白くかすんでいますが、清くひやりとした空気で心が洗われます。しかし羊はどこにもいません。長い旅路で疲れていましたが、ここであきらめるわけにはいきません。

 一日中、羊を探して歩いていると、やがて湖に出ました。湖の中をのぞくと、羊がいるではないですか。水面に顔をつけて見ると、湖の底にたくさんの羊が群れをなしていました。青い透明な湖の底にも、草木や花があるようでした。羊たちはそれを食べていました。マイコは言いました。

「天上の羊さん、助けてくださいな。助けてくださったら、わたしも天上の羊さんのためになんでもいたします。よろしくお願いいたします。」

 マイコは湖の縁に、ひれ伏しました。一匹の羊が、湖から顔を出し、陸に上がってきました。すると、雲や霞が散っていき、さんさんと輝く太陽が顔をのぞかせました。羊の体は見る見る間に乾いていきました。

「天上の羊さま、私のような俗物の人間の前にお姿をあらわしてくださって、恐れ入ります。」

 マイコは、ますますひれ伏しました。そして、息子が不治の病にかかっていること、ここに来るまでに至った経緯のことを話し、ぜひ天上の羊さまの毛を分けていただけないものでしょうか、と涙ながらにお願いしました。

 天上の羊は、息子を想うマイコの気持ちに、心を打たれて言いました。

「わかりました。さぞお辛いことでしょう。どうぞ、わたしの毛を刈り取ってもっていってくださいな。」

「ありがとうございます。このご恩は決して忘れません。私のような小者でも天上の羊さまのためにお力になりたいと存じます。なんでもおっしゃってくださいませ」

「感謝と尊ぶ気持ちを、これからも忘れないでいてくださることが、わたしの願いです。」

「わかりました。感謝と尊ぶ気持ちを忘れません。でも…それだけでよろしいのでしょうか?他に、お望みがあれば、何なりとおっしゃってくださいませ。」

「感謝と尊ぶ気持ちを忘れないことは、とても難しいことです。それを守っていただければ、私はそれで満足です。」

「わかりました。お約束します。」と、マイコは手を胸にあてて言いました。

 天上の羊はうなずきました。

「あなたに幸せがおとずれるように、お祈りしています。」

 そう言うと、天上の羊は湖に戻っていきました。

 マイコは、刈り取った毛を抱えて涙ぐみました。コウのために一刻も早くこの美しい毛をつむいで、セーターを編んであげよう。マイコは、天上の羊の毛がたくさん入った荷物を持って、山を降り、帰っていきました。

家に帰ると、タケシがつきっきりで看病していましたが、コウは熱が下がらないため、体が衰弱していました。

 マイコは大急ぎで、天上の羊の毛をつむいで糸にして、ケープを編みました。

 ケープをコウに着せてやると、みるみる間に熱が下がっていき、苦しそうな表情が消え、顔色が良くなっていきました。マイコとタケシは大喜びです。コウは元気はつらつとして、起き上がりました。

「ママ、パパ、びっくりしてどうしたの? 外に遊びに行きたいなぁ。遊園地に行きたいよぉ。」

 マイコは、コウを抱きしめ、元気になって良かった、良かった、と嬉し涙を流しました。「ようし、みんなで遊園地に行こう。」

 タケシが言うと、コウは歓声を上げてはしゃぎました。

 三人はこの上なく幸せな気持ちで、遊園地に遊びに行きました。コウは大喜びで、走り回っています。マイコとタケシも、子供の頃に戻ったように楽しみました。

 このことを知った近所の人々や親戚や友人や知人が、「うちにも病におかされて、治る見込みのない家族がいます。どうか救ってください」とマイコを訪れました。

 彼らの身内の中にも、病気の種類は違っていても、不治なために辛い思いをしている人がいるのです。マイコは同情しました。

 彼らは「どうか天上の羊さまの毛で編んだ衣類をください。お願いします。」とマイコにお金や気持ちの品を渡しました。そして、マイコはふたたび天上の羊に会いに行きました。

 天上の羊は、マイコから病で苦しんでいる人々の話を聴くと、やはり同じように同情し、「わたしの毛を刈り取って、持っていってください」と言いました。

 マイコがお礼をしようとすると、羊は「感謝と尊ぶ気持ちを忘れずに」と言うだけです。マイコは、毛をたくさん刈り取って、持ち帰りました。

 それから、たくさんのケープやストールを編んで、彼らに渡しました。彼らが病気の身内にそれを着せると、たちまちなおって元気になりました。このことは、人から人に伝わり、街中に知れわたることとなりました。

 マスコミが大勢押しかけてきて、マイコが天上の羊の毛で作った編物を紹介したりしました。その編物は、奇跡のニットと呼ばれ、高額の値段で売れました。資本家が次々現れて、協力して商売することを持ちかけたり、天上の羊がいる場所をどうか教えてくれと頼んできたりしました。マイコは、どんな誘いにも首をふり、天上の羊の居場所も教えませんでした。

 コウはいつも元気で、風邪一つひかずに育っていきました。マイコとタケシは、天上の羊の毛を使って、どんどん商売をしていくことにしました。

 タケシは今までの安月給の仕事を辞めました。そしてマイコの道案内で天上の羊が住んでいる山頂に行きました。湖の側で、数匹の天上の羊が草を食べています。マイコは羊に近づいて言いました。

「先日はどうもありがとうございました。きょうは夫を連れてまいりました。私たちは、天上の羊さまの毛をより多くの人に提供して、多くの人の病気をなおしてあげたいのです。どうか今後とも毛を刈らせてくださいませ。よろしくお願いいたします。もちろん感謝と尊ぶ気持ちを忘れません。」

 そう言って、天上の羊の承諾を得て毛をたくさん刈りました。それから、その山を購入し、「天上の羊」という会社を設立し、道やヘリコプターなどを整備し、現地の人々を雇いました。マイコとタケシの指導のもと、天上の羊が住んでる湖のその周りの草原をさくで囲いました。現地の社員に、羊の毛を刈り取らせ、マイコはかつての編物教室の生徒たちを呼び戻し、せっせと衣類を編んで売りました。

 高額な値段で飛ぶように売れます。マイコとタケシは、どんどんお金持ちになっていきました。コウはまだ幼稚園に通っていましたが、マイコは忙しくて面倒を見る時間がありません。掃除や洗濯などしている時間はありません。料理にも時間をかけていられないので冷凍食品やスーパーで買ったお惣菜ばかり食べる毎日です。なにしろ時間を仕事にそそげばそそぐほど、大金が入ってくるのですから。

 マイコは、家政婦さんを雇って、家のもろもろのことをしてもらいました。マイコとタケシが仕事を終えて夜遅く帰宅すると、すでに家政婦さんがコウを寝かしつけ、夕食も作ってあります。家の掃除もしてあります。マイコとタケシは安心です。

 さらに二人は大きな夢を抱きました。緑が多くて閑静な高級住宅街に、大きな庭つきのお城のような家を建てよう、第二子、第三子も作ろう、犬や猫も飼って、にぎやかに暮らそう、大きな車を買って休日には山や海に行こう、夏休みには海外旅行へ行こうよ、と話し合いました。

 望み通りに、第二子ができました。裕福になるようにとユウと名付け、すぐに家政婦さんに預けて仕事に没頭しました。マイコは自分がデザインして社員に編ませたものが、高い値段でどんどん売れていくので面白くてたまりません。

 さっそく高級住宅街の一等地に、お城のようなゴージャスな家を建て、一家と家政婦さんは引越しました。家の中には、ペルシャ絨毯を敷き、大きなシャンデリアや高価な調度品を置きました。子供たちは天上の羊の毛で編んだ衣類をいつも身につけていたので、同世代の子供たちよりも体格が良く、病気知らずに育ちました。

 コウは小学生に、ユウは幼稚園に通うようになりました。マイコはコウを進学校の中学に入れるために、塾に通わせ家庭教師をつけました。コウは成績は優秀でしたが、無口で大人しい子供でした。ユウは家政婦さんの送り迎えで幼稚園に通っていましたが、いつも大人の言うことをきかないので、マイコに叱られタケシにぶたれていました。

 天上の羊がいる山頂には、しょっちゅうマスコミが訪れ、世界中に紹介され、たくさんの人々が訪れるようになりました。マイコとタケシは、天上の羊が住む山頂を観光地にしました。羊はいつもは湖の底に住んでいましたが、時々岸に上がって草を食べました。草を食べ終わってから、現地の社員が毛を刈るのです。その様子を柵の向こうから、たくさんの見物客が見ていました。天上の羊は、福をもたらす神様だと信仰する人々も現れ、「天上の羊教」という宗教団体もできました。その幹事をマイコとタケシが務め、「感謝と尊ぶ気持ち」という言葉を彫りこんだ天上の羊の像も生産しました。それも売れに売れました。

 天上の羊がいる山頂はいつも観光客であふれ、使い捨ての弁当箱や割箸やシートや新聞紙、空き缶やペットボトルなどが散らばっていました。湖にお金を投げ入れる者もいました。注意書きを掲示しても、訪れる人々が増えれば増えるほど、山頂は汚くなっていきました。

やがて天上の羊が、一匹また一匹と少なくなっていきました。湖の底にいる羊が、岸に上がってこなくなったのか、羊の数自体が少なくなったのか、マイコにもタケシにもわかりませんでした。

 「羊さーん」と呼びかけても、返事はありません。いつからか羊は人間の言葉を話さなくなっていたのです。でも、人の病気をなおす毛の効力は依然としてありました。岸に上がってくる天上の羊が少なくなってくると、刈り取れる毛の量も少なくなり、儲けも減ってきました。このままでは赤字になってしまい、取引先にも迷惑をかけてしまいます。

 マイコとタケシたちは、岸に上がってきた最後の数匹を捕まえて、柵で囲った平地に放しました。羊はもう湖に戻ることはできません。日が暮れると小屋の中で眠るのです。天上の羊は、他の平凡な羊と同じように牧場で飼育され、人工繁殖も行われました。

 羊の数もようやく増え、効率良くするために機械で衣類を編むようになりました。会社はますます成長し株式上場し、マイコとタケシは大金持ちになっていきました。女性雑誌には、マイコが自立したセレブ女性として紹介されました。

 コウは進学校の中学校へ合格したので、マイコとタケシは大喜びです。ユウは小学校の高学年でしたが、相変わらず親や家政婦さんや学校の先生に反発していました。「お前はいつも言うことをきかない。デキが悪い子だ」とタケシが言うと、「うるせぇ!」とユウはかんしゃくを起こしました。マイコや学校の先生が「勉強をしなさい」と言うと「勉強なんか嫌いだ!」と、自分の部屋に閉じこもります。家族一人一人に大きな個室がある豪邸の中で、いつも言い合っていました。ユウは登校拒否になり、自室に閉じこもりました。学校に行かなくても、両親が家にいなくても、家政婦さんが家事、炊事、洗濯など家の仕事をすべてこなし、家庭教師が勉強を教えました。

 天上の羊たちは、小屋の中でうつろな目をして、人工の餌を食べていました。時々、外に出て草を食べることもありましたが、もう湖の底に戻ることはできませんでした。それでも、天上の羊はどんどん繁殖し、数が増え、会社は儲かる一方でした。ある日、牧場で原因不明の疫病が発生しました。天上の羊が、一匹また一匹と倒れて死んでいきます。マイコとタケシはあわてて、病気の羊を隔離して原因究明しようとしますが、間に合いません。天上の羊は次々と倒れていきます。生産も売り上げも急に減少し、会社の株価も急落しました。株主から追い責められ、マイコとタケシは工場の稼働に問題があったとか、異常気象で羊が弱っているなどと嘘をつきました。

 ついに、天上の羊は一匹残らず死んでしまいました。天上の羊がいなくなると、商品は生産中止となります。会社は大赤字になりこのままでは倒産してしまいます。株主に大損をさせてしまいます。タケシは毎晩浴びるように酒を飲み、煙草も吸うようになりました。

 マイコは奮発し、普通の羊の毛を「天上の羊の毛」と偽り、再び衣類の生産に乗り出しました。身に付けても病気がなおらないという噂が立ちはじめましたが、マイコは言います。「羊の品種が変わりまして、数年後から20年後に効果が出てきます。いつどの程度の効果が現れるか、人によって違いますが抜群の効果です。」人々はそれを信じて買うので、会社はようやく立ち直りました。しかし株主は、会社が前と同じように儲かっているだけでは満足しないのです。毎年儲けが増えていかなければ会社に文句を言ってきます。マイコは、売り上げの数字が前の年よりも増えているように見せるために、嘘の数字を発表しました。株価は急騰しました。

 タケシが家で飲む酒の量はどんどん増えていき、煙草を吸う本数も日ごとに増えていきました。酒を飲んだタケシは、学校に行かないユウをとがめます。ユウは前にも増して反抗的になり、わざと部屋を散らかしたりナイフを振り回すようになりました。

 マイコが勝ち組のセレブ女性としてテレビ局で取材を受けていたある日の夜、家ではナイフをもったユウとタケシが取っ組み合いをしていました。灰皿が絨毯の上に落ちて、吸いかけの煙草が転がりました。散らかっていた新聞を焦がしはじめます。二人はお互いをののしりながら、格闘しています。ユウからナイフを取り上げたタケシは、ユウを叱りながら平手で打ちました。その間に、煙草の火がカーテンに燃えうつり、タケシとユウが気づいた頃には、カーテンからもうもうと炎が立ち上がっていました。炎はあっという間に、カーテンから家具や絨毯へと移っていきます。

 上の階から家政婦さんが、風呂場から裸のコウが、あわてて出てきました。炎が部屋中に回っていきます。彼らは、火の粉や炎に包まれて落ちてくるものをよけながら、命からがら飛び出しました。

 ところがユウがいません。ユウは炎に包まれた家の中にいるのです。タケシは消防団員が押しとどめる中、炎で崩れつつある家の中に戻っていきました。激しく舞う炎の中で、ユウが胎児の姿勢でぐったりしています。上から火の塊がタケシの肩に落ちてきました。タケシは気を失いそうな熱さと痛みに耐えながら、ユウを抱えました。意識のないユウをおぶって、タケシは煙と炎の中を、出口に向かってよろよろと歩いていきました。ようやく外に出ると、二人は地面に倒れました。連絡を受けて帰ってきたマイコが駆け寄り、何度もユウとタケシの名前を呼びました。ユウは気を失っていましたが、タケシはマイコの顔を見ると引きつった顔でほほえみ、ぐったりとしてしまいました。

 マイコは、うねうねと燃え上がっている巨大な炎の中に、音を立てて崩れていく豪邸をぼんやり見ながら、やつれた顔で立ちつくしていました。

 消防団員や救急車の人の助けで、家族一同と家政婦さんは病院に運ばれました。タケシはやけどをして腕を骨折していましたが、命に別状はありませんでした。ユウも意識はおぼろげでしたが、やけどを少ししただけでした。コウも家政婦さんもかすり傷を負っただけで無事でした。みんなは、とりあえず安心して休息しました。

 前に、赤ん坊だったコウやユウのために作った天上の羊の毛の編物をタケシの体にかけてみましたが、もう奇跡の効力は失われていました。でも、みんな大きな怪我ではなかったので、何日もたたないうちに元気になりました。

 資産をたくさん築いていたので、また新しいお城のような豪邸がすぐに建ちました。ユウはおとなしくなり、学校に行くようになりました。コウはますます無口になりましたが、自室では本を読んだり、勉強したりしていました。マイコもタケシも朝から晩まで働きました。しかし、かつて購入してくれたお客さんから、病気がなおる効力がなくなった、と言われるようになりました。新しく買った「天上の羊」の衣類も効果がない、と苦情がたくさん寄せられます。ついに、マイコとタケシは詐欺罪で訴えられ、儲けの数字もごまかしていたことがばれて、刑務所に入ることになりました。「天上の羊」の会社と店は家宅捜査され、閉店となりました。多大な借金を抱えて、「天上の羊」は倒産となりました。

 家政婦さんも家庭教師も雇えなくなり、コウとユウは、がらんとした大きな城のような豪邸で、二人きりとなりました。やがて、豪邸は借金を返すために処分されるのです。そのうちタケシは釈放されて、三人で暮らしはじめました。タケシは、怪我をした方の腕がうまく使えなかったので、ユウとコウが家事や炊事や掃除を手伝いました。タケシとユウは、いさかいを起こすことはなくなりました。タケシは、学校に通うようになったユウを見守り、ユウは、腕が不自由な父親を助けるようになりました。

 刑務所にいるマイコは、一人で編み物をしていました。しばらく片腕が不自由なタケシが着やすいように工夫したカーディガンや、ユウやコウのためにセーターをいくつも作りました。薄暗い灰色の狭い部屋で、一目一目ゆっくり編みながら、家族のために編物をしている時間に満足しました。刑務所から、手紙を添えて編物を家族に送りました。すぐにタケシとコウとユウが、面会に行きました。彼らは、マイコが送った編物を着ていました。マイコは、目がうるんできました。ユウが言いました。

「お母さん、セーターありがとう。」

 タケシも言いました。

「着やすいのを作ってくれたんだね。重宝しているよ。腕もずいぶん良くなったよ。」

「ありがとう、みんな。会いに来てくれて。セーターを着てくれて嬉しいよ。好みかどうかわからなかったけど」

 コウが言いました。

「お母さんが編んでくれたものの中では、一番好みだよ。早く帰ってきて料理作って欲しいよ。」

 マイコは涙が出てきて、目がしらを両手で押さえながら、何度もうなずきました。

「もうすぐ帰るから待っててね。帰ったらみんなにおいしいものを作るよ。それからみんなで田舎に引っ越そう。」

「そうだな。山や海があるところがいいな。」とタケシが言うと、みんなの顔が少し明るくなりました。

「引っ越したら、海で泳ぎを教えてやろう。」とタケシが言うと、ユウは言いました。

「父さん、水泳できるの?」

「もちろんさ。泳ぎは得意だったんだから」

「そういえば水泳なんて、もう何年もしていないわね。昔、父さんと二人で泳ぎに行ったものだけど。」とマイコ。

「へぇ、水泳なんてしてたんだ。初めて聞いた。」

 コウが少し驚いて言いました。

「父さん、上手だったのよ。」

「そういえば昔、テントやキャンプ用品を買ったのに、まだ一度も行ったことなかったな。みんなで海辺でキャンプしたいなぁ。」

 ユウはみんなでいつか海に遊びに行くのを思って明るい気分になりました。コウも今まで、学校の体育の時間以外にスポーツをしたことがなく、キャンプもしたことがなかったので、心がわくわくしてきました。

 家族が帰って刑務所で一人になると、マイコはユウと一緒に遊んだ記憶があまりなかったのを思い出しました。

 山や海がある田舎に移り住んで、みんなで食卓を囲んでおいしいものを食べよう。ユウにもコウにも、好きなことをやらせよう。みんなで海でキャンプをしているところを想像しながら、つばのついた麻の帽子を編み始めました。

 資産を売却するのでわずかなものしか残りませんでしたが、マイコはゆったりとして、この上なく幸せな気持ちでした。

完     


2008年6月10日(火)
Naoka Memories 2008
合成の誤謬? あるいは 誰が彼女を殺したか