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Also Sprach Mkimpo Kid

1997年11月21日(金)

 皆さんは「日の丸」や「君が代」についてどう思いますか?
 僕は「日の丸」についてはそれほど抵抗感がないが、「君が代」はできたらやめて欲しいと思っている。
 「小さな石がたくさん集まり固まって大きな巌となり、さらにその巌に苔がむすほどまで、長い長い歳月、まさしく千年も万年も永久に、大君の御代が栄えますように」(靖国神社国歌と国旗の知識」)という詞が時代錯誤なら、何より「宮内省伶人長林広守作曲」という曲がいけない。林の作曲に先立つこと10年、「軍楽隊教官の英人フェントン」が作曲したという元の曲はどんなだったんだろう?
 子供の頃、学校でおりにつけ「君が代」を歌わされた記憶がある。最近ではこの因習はさらに強化されているようだ。
 相撲はともかく、各種近代スポーツでも、ゲームに先立ち、また勝利の後で、「君が代」が演奏されているようだが、僕はスポーツはボクシングとマラソン以外、ほとんど見ないのでよく知らない。
 この前、TVをつけていたら、たまたまサッカーの国際試合のTV中継をやっていて、試合開始前に中西圭三か誰かその手のミュージシャンが(最近、音楽関係の人名や曲名がすっかりわからなくなった)「君が代」を今風のアレンジで歌っていた。ああいうのは本当にやめて欲しい。欺瞞以外の何ものでもない。どうせやるならセックス・ピストルズにでも歌わせろ。
 どうしても国歌が必要というなら(僕はなくても、別段、困らないのだが)、坂本龍一にでも新たに作詞作曲してもらいたい。
 皆さんのご意見をお聴かせください。

  

   


1997年11月22日(土)

 辰吉丈一郎の試合を第5Rからリプレイで見て(シリモンコン・ナコントンパークビューを第7RでTKOで破り、WBCバンタム級王座に返り咲いた)、その勢いでNHK土曜ドラマ「スズキさんの休息と遍歴」を見た。前に高橋源ちゃんが文芸時評で矢作俊彦の同名の原作を褒めていたので、なんとなく気になっていた作品だったのだが、まだ小説の方は読んでいなかった。
 蔵書のなかからその文芸時評の掲載されている「文学じゃないかもしれない症候群」を探し出して、その時評「ドン・キホーテのごとく」を読み返してみた。源ちゃんの時評を読む限り、小説のスズキさんも土曜ドラマのスズキさんと雰囲気的にはまったく同じみたいだ。つまり「ドン・キホーテのごとく」。
 このスズキさんというのが、まったく凄い人で、何でも「正しくないもの」に対してはどんどん批判を加えていく。「全共闘」を未だに生きている人なのだ。妻と小学校6年生の息子がいるにも関わらず。
 スズキさんが生まれて初めて有給休暇をとった日に、岩波少年文庫の「ドン・キホーテ」が郵送されてくる。これはその送り主を捜すスズキさんの休息と遍歴の物語だ。
 フランス5月革命で労働者がパリの街を凱旋したとき乗っていたという「愛車2CV」で、いやがる息子を連れて出かけて行ったスズキさんは、途中、追い越し車線をとろとろと走っているクルマにパッシングをかけて、その若者に殴られる。しかしいくら殴られても、スズキさんは、クルマに乗るならマナーを守れ、と言って譲らない。さらにスズキさんは殴られ続ける。そしてそのなかで、かつての輝かしい闘争の日々を幻視する。息子が心配して呼んできた警官に助けられながら、お前ら官憲は人民の敵だ、と言って乱暴に払いのけ、一切感謝しない。
 また別の場面では、ガードレールは歩行者を守るためにあるのではなく、権力が人びとを管理し、馴致するために設置したものである、と言って、女子高生と一緒に何度もそれを蹴飛ばし続ける。そして息子にもそれを勧める。
 このようにして至るところでスズキさんは理不尽な衝突を繰り返す。
 スズキさんは源ちゃんによる引用によるとこんな人だ。

 「外車とは外部の車だ」スズキさんは素早く言った。
 「共同体規範の外にある車のことだ。ぼくは、外部としてある勢力は、これをすべて積極的に支援する。ぼくはここに、いや、たとえどこにでも常に外部として、そう、いずれあの大切な一日が来るまでは絶えず外部として存在しているのだ。そのぼくが乗る限り、乳母車だろうと霊柩車だろうと外車に変りない」

 なんかめちゃくちゃな人なんだけど、共感できるところがあるなあ。僕って「全共闘」の感性を持ってるんだろうか?
 しかしこんなんで社長と副社長のスズキさんと実質2人だけのような小さな広告会社とはいえ、仕事がちゃんと成り立つんだろうか? ちょっと心配になってくる。そのうえスズキさんは立派な自宅までもっているのだ。
 紀伊國屋書店で小説の方も買ってきて読んでみよう。
 ところで源ちゃんがこの文芸時評を書いた時期っていうのはどうやら1991年1月の湾岸戦争の時期だったようだ。なんてったって1行目の書き出しの文章が〈「湾岸戦争」が流行っているそうだ〉だから。
 高橋源ちゃんは中上健次、島田雅彦、川村湊、柄谷行人、田中康夫らとともに湾岸戦争に反対する「文学者」の反戦署名声明に参画している。僕も「文学者」だったら、絶対、署名していたのだが、あいにく「文学者」に認めてもらえなかったので、署名しなかった。
 最近、加藤典洋の「敗戦後論」という本が売れてるらしい。ここで初っ端から批判されてるのがこの「文学者」の反戦署名声明だ。最近、加藤典洋も竹田青嗣もおかしい。


1997年11月23日(日)

 宮台真司の「透明な存在の不透明な悪意」(春秋社)を読んだ。これは僕の知る限り、酒鬼薔薇聖斗事件を巡る論考として、村上龍の「寂しい国の殺人」(「文藝春秋9月号」)に唯一匹敵するものだ。
 僕は最初、宮台について、なんだか1人だけいつも子どもたちのことを理解しているような顔をして喋っていて、生意気な奴、と思っていたのだが、最近は認識を改めつつある。
 明日は東大駒場祭で宮台真司×藤井良樹×中森明夫の3人によるトーク・ライヴ「新世紀のリアル――オウムから酒鬼薔薇聖斗まで90年代を語りつくせ!」というのがあるらしい。できたら僕も聴きに行くつもりだ。
 感想は、そのうえで、もし気が向いたら、また書く。
 会場でもしムキンポ小僧と思しき姿を見かけたら、声をかけてください。


1997年11月26日(水)

 11月10日にカウンタを設置して、今日で index.html 分がようやく500アクセスを超えた。なんか最初のうちはぐんぐん伸びてたけど、このところちょっと伸び悩んでいる。


1997年11月27日(木)

 「言論・文化・芸術の豊かな発展のため」と称して、次の各団体により構成される著作物の再販制維持懇談会という組織が存在するらしい。

日本新聞協会
日本新聞販売協会
日本書籍出版協会
日本雑誌協会
日本出版取次協会
日本書店商業組合
音楽文化懇談会=日本レコード協会ほか
芸術文化振興連絡会議
レコード労組協議会
日本マスコミ文化情報労組会議=新聞労連ほか

 この懇談会により、11月17日(月)に日比谷公会堂で「著作物の再販撤廃に反対する総決起集会」という「市民集会」が開催されたそうだ。(僕は参加していないので詳細は知らない)。
 僕は今のところ、著作物の再販売価格維持制度の存続・廃止に関してはニュートラルである。僕の好きな「文化人」たちがこぞって撤廃に反対している現況で、再販制度廃止を唱えるのには勇気がいる。もちろん僕は彼らと個人的につながりがあるわけではないし、如何なる既得権益にも与していないので、あくまで個人の内面の問題としてである。
 ちょっと考えてみれば、著作物の再販制度といっても、新聞・雑誌・書籍・レコード等で、また一口に書籍といっても、学術書・タレント本・小説・詩・ビジネス書・地図・写真集等で、それぞれに再販制度の中身や必要性、その問題点には自ずと大きな違いがある筈である。それらを一律に「著作物」という大きな括りで分類して、既得権益をもつ業界団体や労働組織が「言論・文化・芸術の豊かな発展のため」と称して、著作物の再販撤廃に反対する「市民集会」を組織する姿はなんともグロテスクである。
 日本新聞協会によれば、〈新聞再販の問題は、公取委が独禁法の適用除外制度の見直しの一環として、著作物再販も「再販が認められる著作物の範囲を限定・明確化する」との観点から、見直すこととしたのが発端〉であるという。
 「再販が認められる著作物の範囲を限定・明確化する」ための議論そのものを否定する論議はいかさまに過ぎない。
 僕は市場原理万能主義ではない。必要な規制と不必要な規制とを線引きし、市場原理に委ねるべきものとそうでないものとを具体的に区別することこそが重要なのではないか。著作物の再販制度についても、それぞれに場面を分けた細論こそが、今、求められているのではないか。

 参考資料としては猪瀬直樹の〈週刊文春連載「ニュースの考古学」95/12/21〉が面白い。
 またこの問題に関しては猪瀬直樹電子掲示板でいろいろ議論されている。


1997年11月29日(土)

 今日は少し現代文解釈の問題を考えてみた。

猪瀬直樹 wrote: 「ムキンポさんへ」
 困った流通制度は、再販制のせいではありません。そこのところを理解してください。

ムキンポ wrote: 「理解したいのです」
 尊敬する猪瀬さんから「理解してください」と言われると、気の弱い僕はつらいです。

 現在、猪瀬直樹電子掲示板上で著作物再販制度について議論していることは11月27日の日記に書いた。上の2つの発言はそのなかからの引用である。
 さて僕の発言のなかの「尊敬する猪瀬さん」「気の弱い僕はつらいです」というのはどういう意味だろう?
 猪瀬直樹電子掲示板を普段から読んでいる人は、先刻承知だろうが、猪瀬は再販制度維持論者である。僕は本来、中立の立場の筈だったのだが、掲示板のなかで、廃止論を展開する人がほとんどいないので、仕方なく、維持論を批判する立場から発言している。
 それでは次の1〜5のなかでムキンポの気持ちに1番近いのはどれだろう?

1 「気の弱い僕はつらいです」というのはムキンポの正直な気持ちである。しかし誰もそう思ってくれないので、ここぞとばかりにアピールした。ムキンポは気が弱いんだから、あんまりいじめないでね、という意味である。

2 ムキンポは全然気が弱くない。むしろ図々しいくらいである。自分でもそう思っている。「気の弱い僕はつらいです」というのは、一種の反語あるいは冗談である。「尊敬する猪瀬さん」というのも、猪瀬があまりに情緒的なことを書くので、半分、皮肉として使った。

3 これはむしろムキンポの虚勢である。ムキンポは本当は気が弱い。しかしそれを人びとに知られるのを恐れている。だから敢えて、「気の弱い僕はつらいです」などど反語や冗談としてしか受け取れない表現を用い、自分の気の弱さを隠蔽した。

4 あまりしつこく猪瀬に楯突くような発言をして、掲示板に出入り禁止になるのを恐れ、単に外交辞令として書いた。しかしそれが成功しているかどうか、いまいち自分でも確信が持てない。

5 もともとムキンポは自分で自分が何を言っているのか、理解していない。


    


 ところで皆さんは著作物再販制度に賛成ですか、反対ですか?


  


教徒大学文学部の「現代詩読解講座」を参考にしました) 


 Also Sprach Mkimpo Kidは 郵政民営化キャンペーン に参加しています。

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