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ざっつ・なっつ・ぱらだいす


 朝、爽やかな朝、といっても昼近く、僕たちはほとんど同時ともいっていいくらいの絶妙さのタイミングのうちに目を醒ました。カーテンの隙間から洩れる微かな陽の光(部屋は東と北へ向け、大きく窓を開けていた)は、薄闇のなかに、彼女の顔を、ぼうっと輪郭を周囲の空間に溶け込ませるようにして浮かびあがらせ、僕はそんな彼女を見つめ(僕たちはじっと見つめ合いながら)、甘やかな髪の香りをおなかいっぱい吸い込んで、思いあまったように彼女を抱き緊め(むずがるような感覚のなかで、彼女の鼻が小さく、くん、と鳴ったのを聴いたような気がする)、両腕にさらに力を込めて(彼女は僕の胸に顔を埋め)、好きだ、と熱く囁く。
 彼女がもし昨晩、僕のところを訪ねてくれなければ(なぜなら彼女はあいつのところへ行くことだって可能だったはずだ)、僕はこの朝を、一人で迎えなければならなかったわけで(この同じ夜と朝とが、まったく違った夜と朝にもなりえたのだ、という奇妙な思い)、そんな朝が(彼女の不在が、眠りにつくまで、そして眼醒めたあとに、物質的な実体感をもって僕を襲う夜と朝)、もう何日間も続いていたのだ(この同じ日々の連なりが、まったく違った日々の連なりにもなりうる!)。
 彼女はキチンに立って、薬缶に湯を沸かし、それをポットに容れて持って来た。僕たちは熱い珈琲を飲む。
 窓の外はいい具合に晴れ渡っていて、僕はスパイロ・ジャイラの『モーニング・ダンス』を聴きながら、いい気分になって、トーストにバターを塗りたくった。
「やはり子供はできなかったみたい」
 彼女は言った。バターの上にブルーベリー・ジャムを重ねて、トーストを旨そうにパクパクと齧った。おいしそうにミルクを飲み干す。
「それはよかった」
 そう言ってはみたものの、本心は少しだけ淋しい気がして、でも残念だ、と思わず声に出して言ってしまう(言ったことを後悔する。だが言わなくても、やはり後悔しただろうことは、同時に僕は知っているのだ)。
 生まれてくるかもしれなかった僕たちの赤ん坊、ということについて考える(それが生まれてきていれば、事態はどのように変わったろうか?)。彼女の内部へと奥深く、僕自身の熱く滾る肉を挿入し、その粘膜の湿潤へ、白い液体を放射したとき、僕は、生まれてくる僕たちの子供、ということについて考えたのだし、それでいい、とあのとき僕には思えたのだ。確かに僕はそう思った。
 彼女は───彼女もそれを望んだはずだ、と僕は今、考える。だが彼女と僕とでは、それを望む心の襞(その微妙なあり方)が、どこかしら違っていたのかもしれない(それはどこが違っていたか?)そのことが僕を彼女から引き離す。
 そのようにして僕たちは眼醒める。


 僕たちは真昼の公園を散歩する。そのような朝に続く午後、あるいはまったく別の日に(僕たちは新宿のアルタで待ち合わせをして)、真昼の公園を散歩するだろう。
 彼女は夏の光のなかで、肌を小麦色に輝かせ、ポプコーンを楽しそうに頬ばりながら(あるいはソフト・アイス・クリームをうっとりしたように舐めながら)、僕に向かって言うだろう。あなたが好き。
 僕たちは池のまわりを散策する。
 ウシガエルの鳴き声に守られて、貸しボート屋の親爺は午睡をするし、水面はまどろむようにたゆたっている。樹々の梢には名も知れぬ野鳥たち(僕が知っているのは雀だけだ)。木漏れ日が彼女の肩に光の斑(ふ)を落とし、白い麻のドレスが眩しい。
 君は光る夏の少女
 そして僕たちは歌うだろう。


 エレヴェイタの音がするたびに、僕は彼女の訪れを予感し、胸がドキドキと高鳴るのだ。それは十二時が近づくにつれ、昂進し(なぜならその時刻に彼女は現れることが多かったから)、十二時を過ぎた頃、頂点に達する。もし今日も彼女が来なかったら(彼女はあいつと逢っているのだ)、僕はどうしたらいいのだろう? だがどうすることもできないで、僕はただ眠るだろう。
 ドアのガチャガチャいう音が、エレヴェイタの音に続いて起こったら、それは彼女の訪れた徴で、やがてドアは開くだろう。いくら彼女が鍵を間違えたって、鍵は二つしかないのだから、いずれどちらかが合うのだろうし、たとえ鍵を忘れても、中には僕がいるのだから(眠っていたって、十回、チャイムを鳴らしてくれれば、僕は起きる)、入れないことなどないはずだ。
 そして僕たちは再び出逢う。


 そこに彼女はいるだろう。僕は彼女に笑いかけ、やあ、と弱よわしく声をかけるかもしれない。彼女はニッコリと微笑んで、黄色いカーネイションの花束を、優しい手つきで差し出すのだ。
「田舎の母から送ってきたんです」
 そう言って真っ赤なリンゴを四つくれる。
 僕は彼女に詩を見せる。それはとても拙い詩で『ざっつ・なっつ・ぱらだいす』というタイトルなのだ。
 僕たちはフリップ&イーノの『ノー・プッシィフッティング』を聴く。
 僕たちは熱い紅茶を飲む。
 僕たちはすやすやと眠るだろう。窓の外には冬の銀河───
 君は光る夏の少女


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