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いつか見た、恋人たち


 この小説のモデルはひょっとして私じゃないの? と彼女は言った。
 凄い自信だね、とは言い返せなくて(そしてそれは実際、彼女へあてたラヴ・レターだったのだから)、僕は、うん、と素直に頷いてしまうのだった。こうした僕のやり方は、あまりに駆け引きを知らなすぎる、とも思えたし───だがそれ以上に、僕の彼女への思いは募っていたのだ!
 恋人たちの濃密な時間が失われた過去にある、のだとして、流れていった失われた時間は(あらかじめ失われていた恋人たちの甘い記憶は)はたして取り返しが効くのだろうか?
 彼女は石川舞子ちゃんという名前で十九だった。僕たちはコカ・コーラの空き缶を蹴飛ばしながら四谷の土手を散歩した、のだし、公園のベンチで、芋虫ごろごろ、という歌を歌って遊んだ、のだ。
 あるとき(西陽の射す蒸し暑い部屋で、僕たちは汗だくになってヴァグナーの楽劇を聴いていた、そのような夏、そのような季節)僕たちは些細なことから喧嘩をした。
 どうしたの? と僕は訊いた。
 頭が痛くて。
 帰るの?
 帰るわ、彼女は帰った。
 次の日、彼女はとうとう学校に来なかった。
 その日は理科の時間に芋虫を殺した。日直だった僕は日誌を持って担任の岡島可奈子先生のところまで報告に行かなければならなかった。音楽室へと続く静まりかえった放課後の廊下を、ゆっくりと、でも少し緊張して、僕は歩いた。ドアの前に立ったとき、ポロン、と一つ音程がはずれた。
 リストは苦手よ、彼女は言った。
 ピアニストというのはみんなナルシシストなんだ、と僕は思う。
 ムキンポくんは男の人と女の人が愛し合うっていうのは、どういうことだか、わかるかな? 彼女が訊いた。
 彼女は教師としてより、むしろ女として魅力的だった、ということだ。
 わかりません、僕は答えた。
 先生はね、今、猛烈にお酒でも飲みたい気分なの。
 失恋でもしたんですか?
 失恋? あは、まさかね。
 何も、〈青い体験〉がそこで始まった、などと言い出すつもりは僕にはない。だけど何かを終わらせるためには何かを始めなくてはならなかったし、何かを始めるためにだけ何かを終わらせることなど僕にはできない、ということだ。
 こんな話があるのよ、聞いてくれる? 岡島可奈子先生はバーのカウンターでビールをぐいっとおいしそうに飲み干すと、ピーナツを二粒口の中に放り込んで僕に言った。
 何ですか?
 俗物なのよ。
 そんなとき彼女は眼にいっぱいの涙を溜めているだろう。僕はそんな彼女のために

 あなたはそんな私のために?

 夕陽に向かって走るだろう。 
 そんなとき風は常に西から吹くし、クロース・ホールドは僕の得意だ。海の上ではすべてが光り輝いて見えるから、誰でもが物語の主人公になれるのだ。口笛を吹いて、通り過ぎていく美しい女に口説きの文句を投げかけるのもそんな時刻。
 もう出ない? 三杯目の水割りを飲み干したところで、彼女が言った。
 そうですね、僕たちは真夜中の海岸を散歩した。
 石川さんはこの頃、学校にみえないようだけど、どうしているのかしらね? ムキンポくん、何かご存じ?
 須賀神社の祭礼があって、僕は彼女が見知らぬ男と浴衣姿で歩いているのを目撃した。見つからないように、僕はどこまでも二人の跡を追いかけて行った。ウミホオズキを口に含んで、キュ、という音が唇から洩れた。
 彼女はもう一週間以上学校を休んでいる。僕の机の上には書き溜められた彼女への手紙が堆く積まれていた。
 出されることのない手紙の束、語られることのない言葉の海、常に不在であり続ける彼女へ向けて、僕はあてもなく信号を発し続ける。
 複雑に絡み合った電話線の迷路の向こう側に、今も彼女は佇んでいる。


          


 図書室で、偶然、向かい合わせの席に坐った彼女は、僕に、ねえ、フランス人て本当にカタツムリを食べるのかしらね? と言って話しかけてきたのだ。彼女は〈西洋諺辞典〉を読んでいた。
 彼女はとても聡明な女の子だった、というわけだ。
 少なくとも彼女には三つの美点がある。
 一.金銭出納帳をつけていた。
 二.ホウレンソウの油炒めが得意だった。
 三.富士銀行に勤めているお姉さんがいた。
 それに私のお姉さん、富士銀行に勤めているのよ、と彼女は言った。〈ノンバンクが銀行を追いつめる日〉などという本が書かれるずっと以前、貝殻ですべてが買えた時代、巷には物資が溢れかえり、あの頃は何だって手掴みだった。欲しいものはみんな力尽くでも手に入れたのだ。
 北海道に住んでいる僕の叔父は、炭坑を二つに油田を一つ、自動車修理工場を三つに火力発電所を九つ持っていた。彼は大正十二年九月一日、群馬県高崎市でアメリカ人宣教師によって殺害された。享年五十六歳だった。
 彼女にはただ一つだけの弱点があった。つまり、彼女は中国人だった、ということだ。
 僕は彼女の故郷(ふるさと)にただ一度だけ遊びに行ったことがある。その頃、中国では国共合作の真っ最中で、人民日報には毛沢東と蒋介石の笑顔の歓談写真が載っていた。孫文が、どんな穴にでも、嵌る栓がある、と言ったのはその頃のことだ。
 岡島可奈子先生は僕の顔を見ると、というわけなのよ、と言って淋しげに笑った。誰しもがそれぞれの物語を待ち焦がれていたし、南十字星が僕たちをロマンティシストに変えていた、というわけだ。
 向こうに見える島影は、多分、モルディヴですね、と僕は言った。
 ムキンポくんは誰か好きな女の子がいるの? 遠くを見つめるようにして彼女が訊いた。
 先生は?
 大人をからかっちゃいけないぞ、彼女は童女のように泣きじゃくった。
 物語には風景が必要だったし、小説には描写が必要だった。彼女は心の底から女だった、というわけだ。
 臨海学校は八月九日、十日、十一日、二泊三日で、館山に決まりました。参加希望者は七月十五日までに参加申込書に氏名を書いて、参加費三千円を添えて、生活委員の萩原か佐野のところまで申し込んでください。当日は七時半に校庭集合ですので、絶対、遅刻などしないように。例年、二、三人の遅刻者が出るようですが、団体行動の規律を守って、楽しい夏休みの思い出をつくるよう努力しましょう。
 僕の記憶にある最初の海は、死んだ祖母に連れて行って貰った江田島だった。兄は海軍兵学校第七十四期卒業生で、昭和十九年十月二十三日、レイテ湾海戦で英霊となった。
 祖母は兄を溺愛していた。僕は兄に嫉妬していた。
 ねえ、舞子ちゃん、と僕は彼女に呼びかけた。急ぎ足で校庭を横切り、今にも裏門から出て行こうとしていた彼女は鉄棒で足かけ上がりをしていた僕を見つけて、ハイ、と言って、笑顔を向けた。
 何をそんなに急いでいるのさ?
 彼女は片手を挙げて、それを二、三度、ひらひらさせると、じゃあね、と言って、走って行った。
 彼女のいない風景だけが、僕の眼には焼きつけられた。
 彼女のいない風景───物語としての孤独。


          


 序章もなければ終章もない、そんな物語が書きたかった。現実のドラマには始まりもなければ終わりもない。だとしたら、虚構のドラマにもそれらは要らない。僕はそう考えた。
 夕陽が沈み、朝陽が昇る。そんな単純な繰り返しだけが人生だ、として、意味はどのようにも与えうるし、それを覆すのもまた簡単だ。
 君はクリストが神さまだって言うけど、僕は可愛い女の子はみんな女神さまだって思うんだ。
 あるクリスチャンの友人にあてた年賀状に、僕はそう書いた。意味というのはつまりはそういったことだ。
 意味はどこにでも転がっている。多分、僕たちがその気にさえなれば。
 きっかけさえ掴めれば、あとは流れにのって泳いでいける。
 彼は秋川で洗礼を受けた。僕は河原に立って、それを見ていた。
 気分はどうだい? ずぶ濡れになった友人に、僕は訊ねてみた。
 少し寒いね。あと一月で寒中水泳のできる季節だった。
 水の中で何を考えていた?
 亀について。
 人間であることをどう思う?
 立派なことだよ。だって信じただけで、すぐにクリスチャンになれる。亀はたとえ信じても、信仰をもった亀でしかない。
 彼はジンボヒデキという名前で人間だった。
 ねえ、ジンボくん、と僕は彼に呼びかけた。ディープ・パープルの “BURN” をカー・ステレオで大音量で聴いていた彼は、三度目にようやく振り返り、なに? と言ってヘッドフォンをずらした。
 職業婦人についてどう思う?
 その質問は、女学生についてどう思う? と訊いているのとおんなじことだね。つまり、君はモラリストじゃない。
 パスカルは複雑な税務計算に悩む父のため、二年がかりで史上初の機械式計算機を製作したと言われている。コンピュータ関係の入門書のまえがきには大抵そんなことが書かれてある。
 コンピュータ・スクールの講師は僕にそう教えてくれた。彼は、石川さんとは単なる友だち以上の関係はない、と僕に言った。
 コンピュータはあと三年もすれば、性感帯をもつようになる、と言われている。その後の課題は恋愛感情だ、とは専門家筋の一致した見解だ。
 モーガンは急カーヴを描いて岬へと向かった。
 スピーカーが軽快なリズムを刻み始めて───


          


   鋭い問題提起 その一

 それとまったくおんなじ話を聞いたことがあるわ、と彼女が言った。おれもその話、知ってるぜ、と僕は言った。だが何かが不自然だった。とりたててどうこういうわけではないのだが、やはりどこかしらがおかしかった。それはよくよく考えてみると、こういうことになるのだった。それはつまり、そのとき僕は一人でコオフィなど啜っていた、ということだ。最初にその話をしてくれた人物というのが見当たらないのだ。しかも彼女とは一体誰なのか、その話というのがそもそもどんな話なのか、僕にはさっぱり見当もつかないのだ。おれもその話、知ってるぜ、と本当に僕は語ったのだろうか? もし語ったのだとしたら、そこには当然、彼女の存在・彼女の言動といったものが、僕の台詞の前に前提されているわけで(さらに言えば、最初にその話をしてくれた人物の存在・人物の言動といったものも、当然、そこには前提されているわけで)、不在の彼女へ向けての語りかけなどではなかった筈だ。僕は一人でコオフィなど啜っていたわけではない筈だ。しかし現に僕は今、ここにこうして一人で坐って、コオフィなど啜っている自分を見いだす。これは全体どうしたわけであるか?


   鋭い問題提起 その二

 おかしなことはもう一つあった。両親の婚姻届が僕の出生の僅か十日ばかり前に書かれたということだ。


   読者への要望 その一

 解決篇を書いて送ってきてください。


   読者への要望 その二

 カメレオンの住所を教えてください。


          


 宇宙ってどこまで行っても涯しがなくて、まるで愛のよう。
 兎を追いかけていたと思ったら、今はもう猫の真似をして遊んでいる。そんな彼女の気紛れさえもがあどけなく僕を惹きつけた。
 彼女はいつまでも歳をとらず(いわば幼女から少女への移行期の水際−みぎわ−で物語のなかへと誘い込まれて)、すべての美しさと惨酷さと憂鬱とを秘めて、限りなく僕を不自由にした。彼女の手になるものはすべて至聖の黄金であり、彼女の唇から洩れる言葉はすべて究竟の真言であった。肉体は開かれたまますべての男たちに供出されて、幼い性器は精液にまみれ、快楽は膿のように拡がった。
 夜の訪れは魔法の時節の到来であり、森の奥では聖職者たちの法楽の宴(うたげ)が開かれていた。彼女は祭壇の上で永遠の処女であり続け、そして夜ごとに繰り返される儀式のなかで、夜ごとに千人の男たちとまぐわった。逞しくそそり立つ男たちの陽根、血塗られた夜の呪術が悪魔を放ち、呼び戻された太古の記憶が原初の蛇を甦らせた。
 地を這うようなアフリカン・ビート、地図の上でだけ歩いたことのあるアフリカの夜が僕を襲う。
 彼女はそこにおいて供犠(くぎ)であり、巫女(ふじょ)であり、伝説でもあったのだ。


          


 たとえば僕たちは仔犬を追って、どこまでも朝焼けの街を駆け廻ったのだし、宮益坂を降りて、渋谷の駅前にさしかかったとき、突然、彼女が、東横線に乗って横浜に行きたいわ、と言い出したのだ。季節は夏であり、目の前には彼女がいたし、僕はお金を三万三千円持っていた。仔犬は明日にでもまた青山のペット・ショップからくすねてくればよかったのだし、何よりもまず僕は走るのがもう無性に厭だった。
 ジュースでも飲もうか? と僕は言った。
 二十四時間やっている喫茶店に入って、バッハのオルガン曲を聴きながら、カフェ・オ・レを飲んだ。クロワッサンを齧りながら、表通りを眺めて僕は言った。
 生麦では英人が四人、薩摩藩士に殺されたんだってね。
 物騒な世の中になったものだわ。
 中東では最近、魔法を使うのが禁止になったらしいよ。
 段々とロマンが失われていくのね。
 アフリカにはネアンデルタール人がまだ人口の半分以上を占めている国があるんだってさ。
 中国にも北京原人が人口の三分の二近くを占めてる省と自治区がまだ三つほどあるわ。
 壁の鳩時計が六時を鳴らし、新聞配達の少年が欲望に歪んだ顔を上気させて、アスファルトの舗道を駆け抜けていく。銀色のスポークに夏の朝陽が反射した。
 自転車に初めて乗ったのは、確か、僕が小学校二年生の頃、あの頃はどこへ行くにも自転車だった。
 街は僕らのフィールドだった。膝小僧を剥き出しにしてペダルを漕げば、見慣れた街並が後ろに流れ、風景が一変して、ビルディングの陰からは陽気なカンガルーの親子連れや気狂い闘牛士が跳び出してきた。スクリーンの向こう側に見えたのは、いつも恋と冒険と活劇の世界、全身で風を受けてペダルを踏むと、いつしかそこは物語の王国の入り口だった。
 街はいつだって物語に溢れていた。摩天楼の眠り姫やスーパーマーケットの赤頭巾ちゃんが笑顔のバルタン星人に襲われていた。
 心優しき善意の人びとが手に汗握り、固唾を呑んでじっと見守る家族の団欒、スクリーンの向こう側へと跳び出して行くには、ちょっとしたお呪(まじな)いが必要なのだ。
 東京オリンピックと大阪万国博の間に、僕の小学校時代は健やかに過ごされた。自転車を三台潰し、オートバイを二台乗り換えて、ようやく大学に進学した頃、僕は小説家志望の鬱勃とした文学青年に成長していた。
 音楽が古いリズム&ブルーズに変わった。
 ねえ、横浜に行こうよ、と僕は言った。


          


 ねえ、横浜に行こうよ、と僕は言った。横浜には中国娘がたくさんいたし、中国娘は誰にでも優しい。
 僕たちはふとした偶然から街角で出逢い、ささやかな睦言の陥穽に嵌り込むだろう。幾度となく反復される恋の詐術、永遠に続くとも思われるそれら秘めごとめいた恋の罠の循環の渦中へ、僕は涯しなく融け込んでいく。
 たとえば彼女は白い舗道に立ち昇る夏の日の眩しい陽炎であり、ゆらゆらとゆらめき、名前を変えて、限りなく僕を蠱惑する。彼女は幼い子供の頃から繰り返し僕の前に立ちはだかっては消えていったあの不確かな女たちの総称であり、ときとして貞淑にまた淫奔に振る舞える猫のような自由さをもっている。彼女はいくつもの顔と名前をもち、多面体の(あるいはアモルフな)物語の一部をなして、この世界の全体を覆っている。彼女は未来へ向けて投げ出された一点の美しい謎であり、それへ向けての謎解きこそが宇宙の全体を秩序づける決定的な方向づけを担うだろう。
 彼女は常に遠ざかり続ける。夏の日の眩しい逃げ水のように。僕は常にそれを追いかけ続ける。地上における唯一の水源がそこにある、とでもいうように。
 彼女は常に世界の中心に位置していたし、すべての座標、体系、あらゆる基準がそこから始まり、螺旋状の軌道を描いて回帰する。彼女こそこの世の価値のあらゆる側面における根源であり、証しであって、存在とは彼女がそこにあるということにほかならなかった。


          


 あるいは恋文とも呼びうるような(名目的には、一応、小説ということになっているが、その実質は、ある女性にあてて書かれた恋愛感情の発露としての叫びと囁きであるような)一連の文章を僕は書いた。それを読んで彼女は、そのヒロインを、これは私ではないわ、と言うのだが(そう言って僕を哀しませるのだが)、しかしだからこそ僕は、それらの文章を、まさに彼女に近づくため(逃げ水としての彼女を追いかける報われない行為として、失われてしまった時の輪郭を指で丹念になぞるように、できればその内実の甘い果実を、再び、丸ごと、滴る果汁ともども、存分に味わい尽くしてしまいたいと願いながら)、書き続けていかねばならなかったのだ。
〈思い出は、いつもそれにふさわしい名前で呼ばれる必要があるだろう(#1)〉
(だが、生きている生身の剥き出しの彼女! という思い)
 かつてまだ僕たちが幸せな恋人たち(それによって関係が成立することになったところの、しかしまだ秘められた二つの頂点としての、恋人たち)だった頃、僕と彼女とは、たとえば公園のベンチに腰をおろし、樹木、牧場、そして路面電車、といったことについて話をした。あるいはそれはとても暑い日で、暑いということが、ソフト・アイス・クリームを食べるという楽しみを、この上なく純然たる歓びに純化させてくれるような炎暑のなかで、僕たちはソフト・アイス・クリームを食べていた。
 僕は言った。
「僕は松本伊代を心の底から愛しているけど、それ以上に君が好きだ」
「私も中山手線(#2)を心の底から愛しているけど、二番目にあなたが好きだわ」
 あのとき太陽はキラキラときらめいて、青空を一気に駆け抜けてきた感じの光箭が、彼女の髪を金色に染めあげ、褐色の肌が、金色の産毛を浮かばせて、彼女を、光降る国に舞い降りる金色の天使(光そのもののような)に見せていた。
 彼女はオレンジ・ピールのTシャツに、オフ・ホワイトのホット・パンツといういでたちで、僕をヘルシー&セクシーな気分にさせた。
 ベンチのまわりは芝生になっていて、欅の並木が植えられていた。緑の葉叢、その一葉ずつが、くっきりと葉脈までも見透かせた。アメリカ、と僕は思った。セントラル・パークにはリスがいた───
 また別の日、僕たちは線路の上を歩いていた。都電荒川線の線路の上を、早稲田から始めて、疲れるまで歩こう、ということになった。
 真夜中だった。月が出ていた。月明かりの下を、僕たちは歩いた。
 明治通りが線路に平行して走っていた。ちょうど学習院下の停留所を過ぎたあたりだった。
 彼女が言った。
「作家のMが言ってるんですけど、人生で意味があるのは恋愛だけだって、私も最近そう思うんです」
 そして彼女は今、勤勉な学生のふりをしている。
 彼女は朝八時に起きて学校へ行く。
 彼女は朝八時に起きてアイロンかけをする。
 彼女は朝八時に起きて牧場へと向かう。
 彼女は───

   (#1)金井美恵子
   (#2)くらもちふさこ『おしゃべり階段』に出て来る男の子


          


 あるドラマのなかでは、ヒロインは三度殺されかかるし、ヒーローは三度目に彼女を助けそこない、自らも死ぬ。またある別のドラマでは、ヒーローは最初、自分のことをウスバカゲロウの幼虫だとばかり思い込んでいるのだが、善意の人びとの援けで、やがて自分の正体に気づき、自殺する。
 ウスバカゲロウの幼虫、という言葉を聴くたびに、僕は何となく小学生の頃のことを思い出す。僕たちに少年時代の思い出があるように、女の子たちには少女時代の思い出がある。それはサリーちゃんとよしこちゃんとすみれちゃんの思い出である。
 アップル・パイが食べたいな、と彼女は言った。
 ブルドッグが欲しい、と僕は思った。
 アップル・パイは七百円でも食べられるけど、ブルドッグは七万円もするのよ、と彼女は言った。僕たちはそのとき貯金箱に七百円しか持っていなかった。
 両方は買えないね、と僕。
 うん、と彼女。
 そんなとき先生ならどうしますか? と僕は訊いた。
 心配しないで、アップル・パイは私が奢ってあげるから、岡島可奈子先生はそう言うと、ブルドッグの頭をごしごしと撫でた。
 先生はいつだって僕たちの幸せを考えてくれている。
 僕たちはよくブルドッグを連れて、神宮外苑を散歩した。春先には沈丁花の花が匂っていたし、秋には銀杏の実がごろごろしていた。夏には蝉がわんわんと鳴いた。
 東京にだって自然はあるし、田舎にだって冷蔵庫はある。大切なのは、僕たちは東京が好き、ということだ。それは女の子を好きになるのとよく似ている。
 アフリカにはアフリカ的な美人がいる。中国に中国的な美人がいるように。
 誰もが美しい恋をする資格がある。
 僕が東京を好きなように、彼女は上海が好きなのだ。


          


  つづく


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